ごーごごー、ごーちゃんでGo!

前職のトラウマを引きずりながらも畑違いの結婚式場の華やかな舞台を演出するため、古傷の腰痛を抱えた30台後半の主人公仲瀬は、昔の取引先の知人から職人への復職を持ちかけられる。
紹介してもらい入った会社は典型的な家族経営で父親が社長、常務に母親、そして専務は一人息子でマザコン、世間知らずで対人恐怖症、某障害の症状がすべて当てはまるようなその息子の名は豪。
豪に全てを振り回され、廃業まで追いやられた社員の信じられない日々を書き連ねたノンフィクション物語。
繰り返します。これはノンフィクションです。

-シークレット(後編)-

 体験中はトレースの仕事に集中し、他の作業場へ行くことのなかった篤郎は、工場見学よろしく目を忙しく動かしながら絵刷り場に入ると、そこは広い通路状の空間で、右手側の手前の絵刷り台でスケージを引く木原大介と目が合った。
「おはようございます」
「ん、おはよう」
 篤郎が挨拶するが、今は手元の方が大事なんだろう。すぐに目線を落としスケージの先を睨みつけながら摺り下ろす。
 奥の絵刷り台の上には白い紙が無造作に置かれているだけで、さらに奥の荷物置きのラックの端に椅子を寄せて座っている溝内徹がタバコの紫煙をくゆらせており、篤郎の姿に見向きもしていなかった。
 左側を向くと、トイレ、シャワー室、枠洗浄機が続き、枠洗浄機の動作に合わせて田村和則がホースの先に着いた噴射ノズルを握って勢いよく枠についた泡を流し落としていた。
 三人の見た目はこの工場の歴史に合わせて老いており、とてもこれからの会社とは思えなかった。
 染工業はかつての好景気からは見放され、徐々に後退へと突き進んでいる。それは篤郎が転職を考えている時から分かっていた事で、それでも定年までは十分に持ち存えるであろうと見積もってはいたが、世代交代は早急に必要だろうと危惧するのだ。
「ポットのお茶はどこに置いたらいいですか?」
 ポットを手にした右手を上げて目線を誘うと奥の溝内が手を挙げた。
「おう、こっち持ってきてくれ」
「すみません、後ろ通りますね」
 篤郎は木原と立てて並べられた枠の間を通り溝内の前の作業台にポットを置くと、溝内が歯の抜けた口元を綻ばせて、吸っていたたばこを空き缶の飲み口から中に落とし込んだ。
「あんた、景ちゃんとこの息子やろ?」
「はい、あ、やっぱり溝内さんって親父繋がりでしたか。どこかで聞いたことある名前やと思とったんですわ」
「あんたのお父ちゃんと一緒に仕事しとったんは儂の兄貴の方で、儂は亀岡んとこ辞めてこっちに拾ってもらったんや。」
 溝内は座ったままの姿勢で見上げると、嗄れた声で自己紹介しながら篤郎の様子を窺った。
「亀岡で」
 篤郎は頭の中で考えを巡らすが、どうしても繋がらない。名前は知っているのに自分との関係性が思い出せないでいた。
「はは、わからんやろ。辞めた言うても十何年も前の話や。あんたが亀岡でやっとったっちゅうんは景ちゃんからも聞いとったしな。今は仲のええパチンコ仲間や」
「親父とはたまに会うんですか?」
「最近は会わんけど、また歌謡ショーある時はチケットもろてくれって言うといてくれるか。空席作ったらあかんねや」
 獲物を得たりとばかりに眼尻に皺を寄せる溝内はすでに六十歳を超えており、短く刈り上げられた坊主頭は笑うと可愛いおじい様だが、一旦目を吊り上げると暴力団系のその顔だった。実際地元の暴力団系に属している溝内ではあったが、末端に近い立場であり、パーティ券を売って回っては身銭を稼ぎ、それでも生活が出来ないのでこうして会社勤めをするのである。
 篤郎は戦慄し、まさか「製作所」と通じる人間がこの会社にいるとは露知らず、しかも父景造とも繋がっているのは非常に都合が悪かった。
 「製作所」の面々に社長の兄弟関係の会社で働いている事を知られる自分を卑下し、実家の母にも心配を掛けまいと染工場関連の仕事に転職している事を知らせていなかった。夫に次いで長男までもを蟻地獄に落としいれたトレース業を、前回の騒動で母佳子が忌み嫌っていたのに、また踏み込んだのだからバレるわけにはいかない。
「溝内さん、それは直接言うてもらえますか。僕がここに居ることは親には内緒なんでお願いしますわ。あと、亀岡の方も頼みます」
 ここは先手で釘を刺すべく丁重に訴えると、ポットからマグカップへ湯気の上がったお茶を注ぎながら、溝内は首を振って
「わかったわかった、そういう事なら言わんとくわ。この業界で働いとるんも心配やからのぉ。おお、田村、ちゃんとピーンと紙貼れよ。シワ作んなよ」
 そう言って熱いお茶を啜りながら飲み、もう一服とばかりに新しくたばこを口に咥えたると、後ろの絵刷り台の上で台紙を用意している田村に向かって指示をだした、というよりは命令口調である。
「じゃあ、そういうことで、頼みますね」
 篤郎は軽く頭を下げてその場を去ると、深いため息とともにトレース室に戻っていった。

高山テキスタイル株式会社 -シークレット(前編)-

 株式会社マンサービスクリエーションとは内容証明が効力を発揮し、これまで半年の拘束期間の条例を法の力を以って二週間で自主退職が成立した篤郎は、離職票が発行される間も開けず、高山テキスタイル株式会社の社員として第一日目、これまでは亀岡から山街道を抜けて高槻市内への出勤路を、今は老ノ坂峠を抜けて京都市内への出勤路に変えて車を走らせていた。
 亀岡市の土地柄は、四方に山に囲まれた盆地であり、大阪にも兵庫にも京都市内にもアクセスは出来るがすべては峠道を抜けての事だったため、大型台風や降雪、峠区間での事故があると車通勤には痛手となる。
 そのためもあって余裕を見ての出勤であったが、始業時間の三十分以上前に会社前に到着すると、体験時から利用している急坂の駐車場に車を停めた。
 地下一階の戸を開けた入り口に設置されたタイムカードを押しに入ると、すでに奥で紗張り作業に出てきている瀬田達夫と目が合った。
「おはようございます。今日から社員としてお世話になるのでよろしくお願いします」
 篤郎は元気よく挨拶すると、軽く会釈をした。
「おはよう」
 抑揚のない声で瀬田が返す。この時すでに還暦を迎えていた瀬田は、トラック運送から整備士、タクシー運転手と時代の荒波の中を転々と職を変え、ちょうど運転手が不足していると知人に誘われ入社してから、二十年以上もの勤続年数を重ねていた。誘った知人は遠い昔に辞め、出入りの多いこの会社で、気が付けば最長者となっていた。
 多くの入退社を見てきた瀬田にとって、若い世代の入社に心半分は喜び、もう半分はジェネレーションギャップの落差に辟易してもいた。打てば響くような若者はすでに存在せず、何かと口答えする徳田との口論にもすでに匙を投げていた。それでも会社には新しい風が必要で、年々廃れていく工場内の平均年齢に憂いでいたところへ経験者の篤郎の入社に、少なからずの期待も高まるのであった。
 一旦地下一階を出て横の階段を上がると理想の空間トレース室だ。扉を開けると誰もいない暗い部屋はしんと静まり、昨日の樹脂引き作業のシンナー臭がうっすら残っていた。
 新人の仕事とばかりに篤郎はさっそく遮光カーテンの下がった二つの窓ガラスを開け、すべてのパソコン、プリンタ、複合機の電源を入れて回る。掃除器具のレンタル紗で備え付けているモップで床を磨くと窓を閉め、自分に割り当てられた席、豪の隣に座ってモニタを眺めた。起動からようやくデスクトップ画面が表示され、FTPソフトを立ち上げて韓国のPT社からのデータ着信を確認する。まだPTも出社してきてないのかサーバーが繋がらない。
「おはようございます、あ、今日からですね!」
 いつもは栞里が一番にトレース室に入るのだが、今日は天井の電気が明るく迎えてくれる。中にいる篤郎に気付いて挨拶を交わした。
「ですです、気合い入れて家出たら早くに着き過ぎてしまったんですよ。一応掃除まではしときました」
「おっけーぃ、あとはやるわ」
 四十一歳の栞里は今ではこの部屋一番の年長者となり、生まれは関東出身であるが、両親とともに関西へ移ってきたため関西弁だけど関東のイントネーションと言う、少しきつい印象を受ける篤郎だが、会話の輪に入らない辻崎とは話にならず、席も隣同士もあってすぐに打ち解けることになる。
 栞里がやかんを火にかけて茶っ葉を入れる。しばらくして、やかんがカタカタと蓋を鳴らしだすとガスコンロの火を止めて、シンク内に用意したポットに茶を移し変える一連の作業を篤郎が眺めているところに、
「おはようございます」
 始業の五分前に辻崎が顔を出した。住まいは篤郎、栞里よりも近い会社から山道を下りたすぐのベッドタウンで一人暮らしをしているのだが、時間にきっちりなのか単に寝坊なのか、毎回出勤は五分前なのである。
「そのポットって、いつもどこ持って行ってるんです?」
「絵刷り場の溝内さんのところ。熱いお茶しか飲まないんだって」
 ようやく少し軽くなったやかんをガスコンロに戻しで栞里は答えると、今度はシンク内のポットをよっこらしょっと持ち上げる。身長百五十センチもいかない栞里にとっては重労働である。溝内という名前をどこかで聞いた気がする篤郎は、その姿に手を貸すついでに確かめてみたくなり
「僕が持って行ってきますわ」
 と席を立ってポットを受け取り、トレース室裏口から一段低くなった板床に置かれたサンダルを履いて、暗く埃っぽい資材置き場を抜けて絵刷り場へと向かった。

-リプレイス(後編)-

「このアスクルの請求書ですけど、この文房具類あなたの個人の注文って言わはるじゃない」
 優紀子が部屋に入るやいなや、肘付回転いすに深く座った高山靖子と、その傍らに豪が立ったまま腕を組んで待ち構えていた。
「それは辻崎さんに会社の備品と一緒に注文してもらったもので、請求書が来た時にお金を払うつもりでした」
 事務用品を中心に企業向けに安く提供する通信販売アスクルは法人だけでなく個人でも注文できるのだが、日中パートで家を空ける優紀子にとって、ただ利便性を求めてついで注文に甘んじただけのことで、呼びつけた経営者の親子にただならぬ圧迫感を感じていた。
「お金払うつもりってあなた、私が言わなかったらこのままネコババするつもりやったんと違うん? ねぇ豪ちゃん、あんた一緒に注文するって聞いてた?」
「わしそんなこと、一言も聞いてへんで」
 腕を組んだまま豪は答え、視線は優紀子から逸らさずにいた。蓄積したこれまでの優紀子の横柄な態度に、虎の威を借る狐のように睨め付けた。
「ネコババって! そんなこと私しませんよ……、お金はちゃんと払います」
 盗人呼ばわりされて優紀子も黙ってはいられない。しかし靖子の形相は見る見る崩れ鬼面が現れると、勢いよく放った言葉も最後は歯切れも悪くかそぼい声となって消えた。
「あなたね、お金を払うとか、払わないとかそういうことを言ってるんじゃないの、私は。会社を私物化するようなあなたの態度を言ってるの! 普段でもそうでしょ。パソコンに訳の分からないものを入れて、仕事をしてるんだか遊んでいるんだか。豪ちゃんにもえらそうに言ってるみたいじゃないの」
 怒涛のように言い放つと、チラッと豪に目配せすると、さらに畳みかける。
「もうあなたには辞めてもらおうと思ってるの」
「えっ!? そんな、急に……」
「ちゃんと向こう一か月分の給料も払います。なんか他で会社を訴えるだの言ってるみたいだけど、そういうのもちゃんと耳に入っているんです!」
「訴えるって、パートにも有給休暇を取らせて欲しいって前から言ってきたことじゃないですか」
「あんたみたいな生意気な事言う人、今まで見たことないわ! 嫌なら辞めてもらって結構です」
 最後まで言い切った靖子が自然に腕を組む様は、隣で立っている息子の豪と瓜二つで親子は態度までも似るようで。親を見て子は育つとはまさにこの事なのだ。
 俯きながら何か切り返そうと考えるも、口を開こうとすると涙が溢れそうになる。ここで泣くものか。優紀子は手を握り絞めぐっと堪えると、顔を上げ蛇とも鬼とも思える靖子に目を据え、
「わかりました。それなら今日限りで辞めさせていただきます」
 辛うじてそれだけを言うと、相手の返事も待たずに社長室を飛び出した。悲しいのと悔しいのと腹立たしい感情が入り乱れながらトレース室に戻ると自分のデスク下に置いた鞄を取り出し、引き出しの中に手を入れては鞄の中に投げ入れた。
「どうしたん? おばぁが叫んでたん聞こえてたけど、なんか言われたん?」
 栞里はただならぬ状況に優紀子へ声を掛ける。
 隣の部屋で靖子の話し声は聞こえるものの、内容まではわからない。ただ、靖子が動くときは豪がらみなのは、長くこの会社に勤めていれば気付くもので、恐らくは主張が過ぎるので灸を据えられたのだろうと思っていたのだが、
「今日で辞める。途中で悪いけど帰るわ。とても仕事してられる気分じゃないし」
 最後の荷物を鞄に詰めると、上着を羽織って戸口に向かった。
「ヤラれ損はしたくないからこのまま労働局行ってくるわ」
 最後に笑って優紀子は部屋を出て行ったが、決して笑って見送れる表情ではなく、また一人パート仲間を豪によって葬られた虚無感に捉われる栞里だった。


 優紀子が向かった先の労働局では、優紀子の主張は弱く会社に決定打を与える事案はなかったが、その後雇用保険に加入していなかった事が、会社理由による解雇にも関わらず失業手当が支払われない事で発覚した。
 優紀子が会社にその旨を訴えると、慌てて火消しに数か月に遡って失業手合相当額を支払い、既存のパートにも雇用保険をの手続きを行った。
 掛かっているものとばかりに思っていた栞里が申請書類を渡され不審に訴えると
「何でか知らんけど、うちの会社は辞めた人からすぐにいちゃもんつけられるの。ほんま困ったもんだわ」
 痴れ顔で靖子は言い、
「掛けてなかったのと違うのよ。入ってもすぐに辞める人多いから様子見てただけなのに、こんなこと言われたん、私初めて! あなたもちゃんとしてあげてるんだからこれで文句もないやろ」
 親切のごり押しを滔々と語りながらサインと印鑑を押した栞里の書類を預かると、あなたも気をつけなさいねと言わんばかりの釘を刺してトレース室を出て行った。


 ここでも「製作所」と同じように、頭数の調整が速やかに処理された。篤郎が入れ替わりに入社する数日前の出来事である。