篤郎が退職で一悶着を起こしている頃、高山テキスタイル株式会社でも大きな動きがあった。
朝、FTP経由で届いた韓国からのデータにトレース室は活気付き、昼食前にようやく落ち着きを取り戻し豪がスッと席を立って部屋を出ていくと、柿谷優紀子は最小化でタスクバーにしまっていたブラウザをモニタ上に戻した。画面には労働法に関する記述が表示され、優紀子はいくつかの項目をクリックしてプリントボタンを押した。
大判プリンタの横にこじんまりと佇む複合機が音を立ててA4用紙の紙が数枚吐き出した。
優紀子はパートに勤めて五年となり、それまでに抱えていた子供も大きくなり急な休みや早退がなくなると、安定収入を求め正社員への要望を出し続けていた。社員と同じ勤務時間、勤務日数、所謂フルタイムパートであったため、厚生年金も任意保険にも加入できず、時給は京都市の最低賃金に毛の生えた程度で昇給と言っても年何十円と微々たるものだった。子供が大きくなるということは、手が掛からなくなる一方で金が掛かるようになり、パート勤務では優紀子には限界だった。
収入面以上に抱えていた問題は、フルタイムパートに対して一切の有給休暇が取れず、休暇申請はそのまま給料に反映され、ご丁寧に豪の嫌味が付いてきた。
「パートやからって気軽に休まれると段取り付かなくなるから、なるべく早くに教えてくださいね」
労働法では、アルバイトやパートにも一定期間勤続した者には有給を取る事が出来る。しかし、ここでは社員でさえも病院やよほどの事でもない限り有給を取る者はいなかった。有給休暇が何日あるかを経営者でさえも知らないのだから致し方なし、である。
普段は昼食後は机に伏せて寝てるかインターネットに忙しい優紀子が、プリントした資料を集めてバタバタしているのを不審に思った相阪栞里は、ようやく席に着いた優紀子の満足そうな笑みに気付くと、
「なんか面白いものでもみつけはったん?」
聞かれて待ってましたとばかりに優紀子は資料を栞里の前に出す。
「ほれ! 労働基準法第三九条第三項でもパートの有給休暇がちゃんと定められてるよ」
「ほんまやね、豪ちゃんにこれ見せたったらどうしよるやろな」
「口で言うても聞きよらんから、書面で揃えてやってん」
二人でククククと笑っていると、突如トレース室のドアが開き渋面の豪が顔を出した。
「柿谷さん、ちょっと隣の社長室きてくれっか」
そう言い残してドアを閉めた。
無言で自分の顔を指さした優紀子は
「私? なんやろ?」
普段トレース室で豪と言い合うことは度々あったが、社長室に呼び出されるのは初めてだ。素っ惚けてみるものの、戦慄が走る。いや、全く身に覚えがないとは言わないまでも呼び出されるまでの事か、と。
心配そうに見つめる栞里に、無理して笑って見せると、
「ちょっと行ってくるわ」
重い足を引きずりながら優紀子は部屋を出て行った。