高山テキスタイル製作所 -面接(前編)-
一年前の五月、勤めていた地元の北倉石油株会社の整備工場で暴力事件を起こし、しかし事件の経緯に落ち度はあれ情状酌量の余地は在りと会社側は最大限の考慮を図っての自主退社扱い、満額退職金という条件で篤朗は十年務めた会社を退社した。
二児の幼児と三十年の住宅ローンを抱えて今年で三十二歳、定年まで勤めるはずの職を失い再就職までの繋ぎにと父、仲瀬景造が勤める高山テキスタイル製作所でアルバイトに通うことになった。
景造は昔ながらの友禅職人で、筆を握らせたら京都の三羽烏の一人とまで言われたそうだが、これは高山テキスタイル製作所の社長、高山博康の口癖で実際その腕前がどこかで競われたという話は聞いたことが無い。
時代と共に絵柄の描かれた図案の上にフィルムを重ねて直接筆を下すトレース作業から、図案をスキャンした画像をモニタに表示し、パソコンでフォトレタッチソフトのフォトショップを使ってトレースしたデータをフィルムに出力する技法に変わり、コンピュータ操作と絵心の人材を探しているという言うので、景造が不肖の息子を是非にと口添えしたものだった。
元々趣味でコンピュータグラフィックに慣れ親しんできた篤朗にとって、デザイナーの高嶺の花と呼ばれる単価十万円を越えるフォトショップを個人で購入し扱い慣れた内の一つで、それをトレースに使用している事を聞くや二つ返事でその日の内に出社した。
アルバイトという身分でありながら、短期間で他社員と変わらぬ収入を手にすることになる。
アルバイトから正社員へ、篤朗がそれを考えない日は無かった。家庭とローンを抱えた篤朗にとって安定した収入と生活は渇望であったにも拘らずその一歩が出ないのは、この高山社長がワンマン経営で篤朗の幼い時期から父景造の愚痴を聞いて過ごしてきたからだ。弱みを握られたら最期、いつまでも頭の上がらない扱いを受ける等、他社員からも聞かされてきたのだからここに身を置くにも踏ん切りがつかない。
篤朗が職探しをするわけでもなく、正社員で雇ってもらおうと頼むでもなく悶々とパソコンに向かいながらトレース作業をしていると、
「あっちゃん、ちょっとワシの部屋で話しよか」
トレース室に入ってきた高山は満面の笑みでそう言うと先に一人で部屋を出ていくので、篤郎は慌てて立ち上がり隣でタブレットペンと格闘中の鳥養昌彦と顔を見合わせ、
「ついに来たね、ちょっと行ってくるわ」
と小声で言い捨て高山を追った。
廊下を挟んで斜め向かいの部屋が高山の社長室であり、ソファに腰かけた高山は篤郎が部屋に入って来るのを認めるとテーブルを挟んだ向かい側のソファへ座るように促した。
高山はすでに還暦を越えてはいたが、染色業界が最高潮の時期に会社を立ち上げ、景造を含む数人らで荒波を乗り越えてきた猛者としての貫禄をその体格が物語っている。肥沃な体形は長身もあってさらに凄みは増し、笑顔で刻まれた皺一つ一つには多くの悪事のあったことが見え隠れする。若い頃には黒塗りの日産センチュリーを乗り回しやくざ顔負けだったとどこまでが尾びれ背びれなのかとまことしやかに聞かされていた。
「あっちゃんとこのぼんは今いくつなんや?」
頬肉の下がった顔を寄せて高山が聞く。
「長男が二歳で、下の子はまだゼロ歳ですね」
軽く腰を落とした姿勢で篤郎が答える。
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