高山テキスタイル株式会社編 -アドバイス(前編)-
三月に入り、篤朗が初めて来てからもう何度も足を運んだトレース室は、すっかり居心地の良い気心の知れた仲間との場となっていた。仕事の流れも大方把握し、この日も『もはや化石』のパソコンで外注から送られてきたデータを検修していた。
フォトショップのバージョンも篤朗が仕入れたCS3の最新版を導入し、パターン機能が使えない不便さを補って余りある処理速度を手に入れていた。ファイル容量の大きなTIFファイルも新バージョンでは制限なく開くことが出来、これまで優紀子が担っていたパソコンのメンテナンスもどきはすべて排除され、優紀子だけが自分のパソコン環境の牙城を死守していた。
「こんにちは、ちょっとお邪魔しますよ」
トレース室のドアを開けた靖子が、篤郎の元にいそいそと入って来ると、
「はい、これ先月のお給金」
篤郎に社名の入った白封筒を手渡した。
「え? 僕給料をもらえるんですか? 体験で来させてもらっていただけなんで、仕事らしい仕事してないですよ」
拒否するともなく受け取るが、まだ信じられないでいた篤郎に、
「いつもちゃんと手伝ってもらってるんだから、少ないですけどこれくらいは出しますよ」
靖子は笑って言うと
「あとは一日でも早く来て欲しいわね、豪ちゃんでは頼りないでしょ、ここも」
「いえいえ、いつも僕のほうが教わってる状態ですよ。でも、なるべく早く今の仕事が辞めれるように話はしてきます」
「ぜひそうして頂戴。仲瀬さんを頼りにしてますよ」
そっと頭を下げると、いつものおほほほほと定番の笑い方で部屋を出て行った。
「仲瀬さん、無理ないスケジュールで決めてもらったらいいですからね」
横の豪が補足した。
給料袋を受け取ってから驚きの連続で何から対処していいのか少々戸惑いながら返事をすると、篤郎は先ほどの靖子のセリフを頭の中で反芻した。息子をみんなの前で豪ちゃんと呼び、それになんら恥じ入るわけでもなく、自然に発していた。普段から会社でああ呼ばれているのだろうかと。
また、手にした給料袋の中身も気にはなったが、みんなの手前鞄の中にしまい込んだ。
昼食休み、この頃は弁当持参で夕方まで残っていたので、トレース室のみんなと昼食をとっていた。豪は隣の母屋へ戻るため、トレース室は社員とパートだけが残される。
「仲瀬さん、びっくりしたでしょ、あのばばぁ。豪ちゃんって四十後半のおっさんにキモいやろ」
栞里は箸を動かしながら先ほどのホームドラマについて語ると、
「豪ちゃんは豪ちゃんで、お母ちゃんって呼びよるんやで」
優紀子が参加する。辻崎は変わらず一人昼食のパンを齧りながらインタネットに勤しんでいる。
トレース室で唯一の社員である辻崎は、同業種からの転職してきた三十九歳の独身で、前職で身に着けた焼き付け作業の応募で入社するが、トレース室がパートの女性ばかりに一人豪がいるスナック状態と周りから揶揄されていたため、急遽トレース室に転配され今日にいたる訳だが、焼き付け作業の環境は一人で一日を過ごすことが多く、その影響があってか生来の性格なのか黙々と作業をこなすため、誰よりも精度の高い仕上がりだった。また寡黙でありながら生きる辞書とも呼ばれており、年を取った人が連発する「あれ、ほらあれよあれ」のあれを聞くと大抵回答を返してくれるのである。
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